大津城は琵琶湖の南西端に位置する場所に築かれていた城。織田信長は琵琶湖南西・比叡山山麓に坂本城を築き、その城主は明智光秀が務めていた。当地は京都の東の入り口の地で非常に重要であったため、光秀のような重臣が城主に任じられた。その光秀が本能寺の変を起こし羽柴秀吉に討たれた後、天下人となった秀吉は坂本城を廃し、新たに大津城を築いた。築城は天正14年(1586)頃と言われる。
初代城主は秀吉の親戚で重臣の浅野長政が坂本城主から転じ、次いで増田長盛、新庄直頼、京極高次が城主となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では高次は東軍につき、西軍の攻撃を受けた。一週間ほどの攻防ののち9/14に高次は開城したが、大津城を攻めた西軍は9/15の関ヶ原本線には間に合わなかった。戦後家康は西軍を大津に足止めした高次の功を高く評価し、若狭小浜に加増転封となった。また大津城は廃され、東に3km程の膳所に新たな城が築かれた。
なお、大津城の天守はこのときに彦根城に移築されたと言われる。
大津城は琵琶湖の南西端に位置する場所に築かれていた城。築城は天正14年(1586)頃と言われ、初代城主は秀吉の親戚で重臣の浅野長政である。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では城主・京極高次は東軍につき、西軍の攻撃を受けた。一週間ほどの攻防ののち9/14に高次は開城したが、大津城を攻めた西軍は9/15の関ヶ原本線には間に合わなかった。戦後家康は西軍を大津に足止めした高次の功を高く評価した。その後大津城は廃されたが、大津城の天守は彦根城に移築されたと言われる。
(2020/3/2 作成)