岐阜城は当初は稲葉山城と呼ばれていた。戦国時代には美濃を支配していた斎藤道三が稲葉山城を本拠とし、城を拡張した。天文23年(1554)には道三は隠居し、子の義龍が跡を継ぎ城主となった。義龍は父の道三と敵対し、弘治2年(1556)に道三を滅ぼす。しかし永禄4年(1561)に若くして死去し、子の龍興が継いだ。龍興は日ごろの行いが悪かったらしく、家臣の竹中半兵衛らが主君を諌める意味で一時的に稲葉山城を占拠するという事件も発生した。
しかし結局龍興は国を纏めることができず、永禄10年(1567)に尾張の織田信長の攻撃を受け敗北し、他国へ逃亡した。これにより稲葉山城は織田信長のものとなり、城下町の名は井口から岐阜へと改められた。城の名前も岐阜城と呼ばれ、信長は本拠を岐阜城へと移した。その後、信長は将軍・足利義昭を擁して岐阜から上洛し、京都の将軍を岐阜から支援した。
信長は天正4年(1576)に安土城を築き、本拠を移転した。これにより岐阜城は子の信忠に譲られた。信忠は岐阜城を拠点に、美濃国東部などで巨大な敵であった武田氏と激戦を繰り広げた。天正10年(1582)の本能寺の変により信長・信忠親子が死去すると、信長の三男・信孝が城主となった。しかし信孝は柴田勝家と組んで羽柴秀吉と敵対、翌年には敗北して自害した。変わって岐阜城は秀吉家臣の池田恒興の子・元助が城主となった。その元助もさらに翌年の小牧・長久手の合戦で戦死、弟の池田輝政が城主となった。
天正19年(1591)に輝政は三河吉田に転封となり、その後織田信忠の子(信長の孫)である秀信が城主となった。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には秀信は西軍に付き、木曽川で東軍を迎撃するが防衛に失敗し、岐阜城に籠るも落城した。徳川家康は関ヶ原合戦後に岐阜城を廃城とし、かわって加納城を築城した。この時、岐阜城の建造物は加納城に移築されたと伝わる。
日本百名城。もとは稲葉山城と呼ばれ、のちに織田信長により岐阜城と改められた。信長は岐阜城を拠点に全国に勢力を伸ばした。信長の孫・織田秀信が城主の時代に関ヶ原合戦が起こり、東軍の攻撃を受け落城し、これを最後に廃城となった。
(2009/5/14 作成、2013/7/21 更新、2018/1/3 更新)