【城の歴史】
・滝山城は武蔵の守護代・大石氏の居城で、永正18年(1521)に当主・定重が築いた。その後大石氏は勢力を伸ばした相模の北条氏の支配下に入る。これにより北条氏三代当主氏康の三男の北条氏照が大石氏の養子となり、氏照が滝山城主となった。
・本格的に築城されたのは永禄五~六年(1562-1563)頃と考えられる。築城者は北条氏照で、氏照は現在の八王子付近の統治を任されており、その本拠城として築いたものである。滝山城築城以前に氏康は由井城を居城としていたが、永禄四年(1561)に上杉謙信による小田原攻めの際に由井城は関門の役を果たさず上杉軍が小田原に侵攻してしまったことや、小田原攻めの後に北条家から離反した三田氏を北条家が滅ぼし氏照の支配領域が北方に延びたので滝山城を築き由井城から移ったと言われる。
・元禄12年(1569)に甲斐の武田信玄の二万とも言われる大軍の侵攻を受け、城内まで侵入を許すなど(諸説あり)苦戦の上、守備側二千の奮戦により何とか守り抜き落城は免れたが、氏照はより堅固な城の必要性を感じ、また甲斐から武蔵に侵攻した際に関門となる地に城を築くべく、滝山城に代わって新たに八王子城を築いたと言われる。
【城の立地】
・城は多摩川南岸の崖上にある天然の要害に築かれた山城であった。また秋川が多摩川に合流する地点に程近く、上流は現在の青梅・奥多摩・秋川方面に、下流は江戸湾に至る水運を抑える立地にあった。また陸路は現在も関東西部を南北に連なる幹線道路である国道16号線が通るように、当時も北条家の本拠地・小田原から滝山・川越・武蔵松山・鉢形に至る、北条家の拠点城を結ぶ道の途上に位置する城であった。
【城の見どころ:普請(土木工事)編】
戦国時代の関東の覇者・北条氏の主要拠点であり、重要な城だからこそ設けられた数々の巨大な堀や土塁を中心とした遺構が残る。近年整備も進み遺構がより明瞭に見て取れるようになっている。城の構造としては、多摩川が流れる北側を除く、西~南~東にかけての外郭線(中の丸、二の丸、千畳敷、三の丸、小宮曲輪など)を長大な横堀で囲んでいることが特徴で、この規模の堀を1560年代に築いた先進性を持つこの巨大な横堀が見どころの一つだ。また二の丸には3方向からアプローチできるが、いずれのルートにも馬出が構えられているところも特徴で、二の丸より内部の最中核部を二の丸の3つの馬出で防御しようとしている点も特徴である。
【城の見どころ:作事(建築)編】
・本丸と中の丸を隔てる堀を渡る橋が架けられていて、滝山城を象徴するポイントとなっている。この橋は往時は曳橋であったという。敵が中の丸まで侵攻してきたら、橋を引くことで敵を渡れなくする仕組みである。
【主な参考文献等】
書籍 中井均・齋藤慎一、『歴史家の城歩き』、高志書院、2016/5/25
Webサイト 滝山城築城500年、閲覧日2021/11/21、https://hachioji-takiyama-500th.com/
パンフレット 滝山城 城攻めマップ、平成30年11月
ARアプリ 滝山城跡 利用日2021/11/21
武蔵の守護代・大石氏の居城で時の当主・定重が築いた。その後大石氏は相模の北条氏の支配下に入る。これにより北条氏照が大石氏の養子となり、氏照が滝山城主となった。氏照はより堅固な城の必要性を感じ、滝山城を廃し新たに八王子城を築いた。
(2008/12/3 作成、2021/12/4 更新)