和歌山城は紀伊を支配下に置いた豊臣秀吉の弟・秀長が天正13年(1585)に築いた城である。城は虎伏山に築かれたため、虎伏城とも呼ばれる。築城には、当時は秀長の部下で、後に名城を数多く築く事となる藤堂高虎も携わったと言う。桑山氏が城代を務めるが、桑山氏は関ヶ原合戦で東軍につき、大和新庄に転封された。代わって浅野幸長が和歌山城に入り、城を拡張し、この時下見板張りの黒い天守が建てられた。
さらに元和五年(1619)には浅野家が広島へ転封となり、かわりに駿府城から徳川家康の十男・頼宣が城主となった。これが徳川御三家の紀州藩の始まりである。これに伴って城の拡張が行われ、かつて築城に携わった藤堂高虎が再度拡張に関連したと伝わる。弘化三年(1846)に落雷による火災が発生し、天守などを焼失したが、嘉永三年(1850)に再建された。
明治維新により廃城となり、さらに太平洋戦争の空襲により嘉永年間に建てられた国宝の天守も焼失した。現在の天守は昭和33年に再建されたものである。
日本百名城。紀伊を支配下に置いた豊臣秀吉の弟・秀長が天正13年(1585)に築いた城。関ヶ原合戦後には浅野幸長が入り城を拡張した。さらに元和五年(1619)には浅野家が広島へ転封となり、かわりに駿府城から家康の十男・頼宣が城主となった。これが徳川御三家の紀州藩の始まりである。太平洋戦争の空襲により天守等を焼失した。現在の天守は昭和33年に再建されたもの。
(2007/8/10 作成、2013/4/15 更新、2019/11/2 更新)